となりの吐露

ある、一定のストーリーが琴線に触れる。

ちょっと前まで、それが「表現者が報われるストーリー」だと考えていた。

命をかけて漫画に向き合う人々を描いた、鉛のように重いパンチで読む者の頭を殴る「G線上ヘブンズドア」しかり。

拉致監禁された主人公」というハードな設定への作中での処理がマイルド過ぎるが、それを補って尚ある、大小プロアマ全てのクリエーターへの賛歌の映画、「ブリグズビーベア」しかり。

 

僕自身、趣味で表現活動をしている。そのため、それらのストーリーに、自分の趣味への想いを投影させて、感銘をより受けているのだと思っていた。

しかし、なぜか、表現者出てこない、以下の話も琴線に触れてきてたまらなく感じてしまった。

 

 

ポケットモンスターみんなの物語(挫折した人間が持ち直すさまに、また挫折した点を他の誰もが責めないでいる点に、嬉しく思ってしまった。)

小林さんちのメイドラゴン(日常系と呼ばれるジャンルの亜種。異種という、違い過ぎる他者を仲間と受け入れるという考えの先を、最終話に見せてくれる。)

FLIP-FLAP(何かに熱くなっているマイノリティーは狂ってるけど、カッコいい。そして、狂っているそんなあなたが好きだ・・・という話。)

 

これらは、ここ1年ぐらいで立て続けに見た中で、いずれも胸が熱くなるようなものだった。いや、FLIP-FLAPだけもっと前に読んでるから、再読ですね。

これら物語の共通点は何なのか?そして、その共通点から、僕自身はどういう心持ちで生きているのだろうか?疑問に思ったが、考えるまでもなく答えは分かってしまった。僕は、自分を他者から認められたかったのだ。

前者2つの、表現者が主人公の物語は、表現することによって、自分の居場所を得ていく物語だ。後者の3つの物語は、ダメだった自分を自己肯定する物語であり、違い過ぎる他者がまた別の他者に認められる物語でもある。いずれも、「認められる」ことや「見返していく」ことに強いカタルシスを感じる。そういえば僕は、「錦木検校」とか「中村仲蔵」とか好きだし、何より「業の肯定」という考えをとても信奉していたもんなぁ。

 

 

 

僕の趣味の表現活動とは、落語だ。プロではないが、趣味で落語をしている。もうかれこれ、10年以上続けているが、それについて、下手だと蔑まれることも少なくはない。人間なのだから、蔑まれると辛くなる。落語を下手だと批評されるのは、プロでない界隈でもある話だ。しかし、「下手なアマチュア落語家は、ぞんざいに扱っていい」とばかりに、人間扱いされていないこともある。他の趣味と違い、落語のような客に表現活動を見せる趣味というのは、客からの審判も暴力ではないことになる。下手なものを客前に出すのはお客さんに失礼にあたるからだ、プロアマ関係ない。しかし、やはり人間扱いされていないと悲しくなって、表現活動を辞めてしまいたくなる。

また、落語は個人種目だと思われるが、一人では落語会など開けないためどこかのアマチュア団体に所属するとなる。まさか、落語をやることで、人間関係に悩むことになるとは思いもよらなかった。そんな、悩みがピークに達すると、やはり表現活動を辞めてしまいたくなる。

 

 

自分が落語を辞めたときにどうなるのか?よく、「趣味をなくしてしまった人間は、生きる活力までなくなってしまう」と言われるがそうなってしまうのか?もしくは、「客から落語批評以上の暴言を吐かれる」や「人間関係に悩む」というつらみをなくした自分は、案外すんなりと落語を鑑賞するファンの一人として満足できるようになってしまうかもしれない。それとも、辞めたところでまたやりたくなって、落語をやることに復帰してしまうかもしれない。

 

近々、大きなイベントに出演する。大会である。ここで、自分の進退を決めてしまうわけではないが、辞めてもいいぐらい悔いのない高座にしたいとは思う。そして、そのイベントの頃から、ボチボチと、付き合っても苦しいだけの人間関係を切っていこうとも考えている。

 

イベントの後からそんなことをしてしまうと、イベントでの自分の出来に依存してそんな行動をしていると思われかねない。

他人曰く、「あいつは今日スベってイライラしているから横暴なことをしているだけだ」。他人曰く、「今日の出来がよかったから、調子に乗ってオレに失礼なことを言っているんだ」。などなど。

それでも構わない。そう言われたら、こちらから訂正して怒るだけだ。そして、自分がイベントでの出来に関わらずそういう決意をしていることを、ここで文として書いておこうと思う。

 

 

散文になるが、元々、自分は落語を趣味とすることに向いていなかったんだ。「不器用で下手くそ」という点と、「他人から蔑まれたら、ずっとそのことを気にしてウジウジしてしまうほどメンタルが弱い」という点で。でも、なぜ10年以上も落語を演り続けられたかというと、「落語を演るのがとても好きだ」という一点の異能のみである。その好きという感情が、ウケれば少し続いて、スベれば少しすり減るだけのことである。

せめて、もっと落語を長く演り続けたい。そのための、逃げの道を、いろいろ試そうと思う。

 

 

 

 

 

 

追記(20180913)

 

「付き合っても苦しいだけの人間関係を切っていこうとも考えている。」

こう、文中に記したが、これに対して、こういう反論が想定される。「そんなことをすると、周りから誰もいなくなるよ」と。それを見越して、二点、書いておきたい。いわば、想定の反論です。

 

 

・周りから誰もいなくなるかは、やってみないとわからないと考えています。なので、そう確信めいたことを、まだ言わないでほしいです。周りから誰もいなくなったときに、そのことにまた悩みますから。

「ひとりぼっちで寂しい」ことと「苦手な人間何人もと、無理して付き合い続ける」ことのどちらが苦しいか、それは僕に決めさせてください。

 

・周りから嫌いな人だけでなく、僕の好きな人も誰もいなくなったなら、僕がそれだけの価値しかなかった人間だったと諦めます。価値のないのに見栄を張って、自分の感情に無理させて、ゼエゼエとしんどくなって、心が病む方が、僕には耐えられないです。そして、「僕が苦手な方を切っていく」ことで、僕が好きな人々が離れていき、その人たちが僕のことを好きじゃなかったということがはっきりしたなら、悲しいけどそのときに僕の相手への好きは終わるのだと思いたいです。

「好きな人々と付き合うための対価が、苦手な人々との付き合いなら、僕は両方手放したい。」、今はそう思います。本当にそうなった後の孤独の悲しさについては、孤独になったときに対策を考えたい。これをわがままというなら、僕はわがままを行使してでも、苦しい現状から抜け出したいです。